読まない本に価値はあるか?~「存在する」という機能を考える

みぢかを機能で考える <第7回>

Original 2017/5/02

第4回のブログで、「本の機能」についてお話をしました。

紙の本には「脳内を耕す」機能がたくさんある。

一方、本を買う理由として「所有欲」がありそうで、紙の本には記録媒体として「脳内を耕す」こと以外の機能があるのではないか?

という話でした。

紙の本の機能をフカボリしてみます

今回は

「所有欲」を満たすために紙の本は存在しているのではないか?

を深堀りしてみたいと思います。

どんな状況を想定しているかというと…

  • 本を所有しているだけで満足する。
  • 本棚に並べて眺めるだけで満足する。
  • 読む機能は二の次となり、下手をすると読まないまま飾られ続ける本となる。

ここで問題です。

読まない本に情報はあるのでしょうか?

これは「誰もいない森で樹が倒れたら、その時、音はしただろうか?」という有名な哲学の問いかけのアレンジです。認識者の有無が現象の有無につながる、という考えです。

個人的な話になりますが、私は某「手が伸びる海賊が主人公の漫画」は同じものを2冊買っています。家族でボロボロになるまで読みつぶす本と、きれいに私の本棚で保管する本です。これを読むと「??金と場所の無駄!!」という人と、「とってもよくわかる!」という人とに二分されると思います。後者の方、私と同士です。仲良くしましょう(笑)。

それはさておき・・・

保管用の本を眺めながら

「この本は、確かにきれいな状態で保存され、表紙も帯もきれいなままだが、ひょっとしたら中は何も印刷されていないのではないだろうか? というより逆に、印刷してある必要はないのではないか?」

なんて考えたりします。

この時の本の価値は、きれいな外見・装丁を以って「ここに存在していること」です。 存在自体が価値なのです。中身に文字や絵などの情報を持つ必要性はありません。

でも…。

印刷されていない、白紙の本を果たして買うでしょうか?

オブジェならともかく、ちゃんと書籍として存在する本を買うのですから印刷された中身は絶対に必要です。それがあるから表紙があり、装丁があり、内容の伴った厚さと大きさがあるのです。

でも読まないのですから、情報は重要視されていない。情報の内容の価値は二の次になります。

とはいえ興味のない、もしくはレベルの低い情報しか持っていないのに装丁がきれいだからという理由だけで本を買うかというと、絶対そんなことはないので、やはり情報価値も重要です。

タマゴが先かニワトリが先か的な話になってしまいました。キリがないので一言でまとめます。

これは単なる所有欲ではなく、「知的かつ美的な情報所有欲」である・・・と自分に都合のいい定義とさせていただきます。

そしてその欲望を満たすことができるのが、紙の本の存在であり、存在自体が機能なのだと思っています。

「そんなこと言いつつ、きれいにとっておいて、希少価値が出たところで高く売ろうと考えているのでは?」と思っている方。

世の中そんなにうまくいきません。

某漫画専門古本屋ではかなりの高額で売買されている古書は、ほんの一握りです。

私は本を「投機対象」と考えたことは一度もありません。

でも世の中には「限定品」という名の本もあったりします。

その価値、機能はなんでしょうか?

ということで、またしても話は続きます。

またの機会に「脳内を耕す」ことのできる記録媒体機能と「知的・美的情報所有欲を満たす」存在機能以外についても考えてみたいと思います。

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