みぢかを機能で考える <第4回>
Original 2017/4/12
これまで3回、みぢかを機能で考えるブログを配信してきました。
私が機能について語っている理由は、機能を考えることで物事の本質を理解する一助になると思っているからです。
ただ、どちらかというと「技術」に焦点をあてた内容だったと思います。
今回は、技術寄りの話から少々離れて考えてみたいと思います。
今回は「本」について考えてみます
今、kindleで本を(漫画ですが・・・笑)読んでいるのですが、実に便利です。
まず本屋に行く手間がいらない。すぐ手に入る。
そして、手のひらの端末が本棚なので、次の巻を取りにいく手間がいらない!
なんて便利な時代なのでしょうか。
これになじんでしまうと、もはや本を買う必要もなければ、本屋に行く必要もなく、本棚もいらない。
・・・となるはずですが、実際には本は買っているし、本屋にも行くし、家には本棚がある。
そしてこれからも変わらないでしょう。
なぜでしょうか?
このブログでは、本への愛情や魅力、ましてや書店愛を語るつもりはありません。そのような内容は、もっと文才のある人が美しくも感動的な文章で上手に表現してくれているはずです。
ここでは今までの流れと同じように、冷静かつ客観的に、「本」というものの機能を考えてみます。
さて、本は何のためにあるのでしょう?
情報を、後世に残すため、誰かに伝えるため、不特定多数に広めるため。
そのために、情報を文字という記号に置き換え、紙という媒体に記録する。それが本です。要するに「記録媒体」です。
これだけの機能であれば、本という存在は、デジタル化の進行とともに間違いなく消えると私は思っています。
それでも消えないのは、「伝える」という目的があるからだと考えています。
伝えるには、その方法が容易であることが重要なことの一つだと思います。
電子書籍は端末とソフトとそして電気の力を使って初めてその情報が伝えるべき人間の前に現れます。
でも本は開くだけです。
この差は非常に大きい。
電気がなくなった世界では、端末という道具は働かず、情報を再生することはできないのです。 本には道具は要りません。
また「伝える」には、伝える対象の人が「理解する」も重要だと思います。
文字情報が目の前にあるだけでは意味がなく、目を通じて脳に伝わり、脳がその文字情報を文脈として脳内で変換し理解して初めて意味をなすのです。
本を読む行為でも人はエネルギーを使うといいます。 一説によると75分間の読書で100キロカロリーとか。
しかし、同じエネルギーを費やすとしても、その本のありようによって伝わり方は違いますよね。
文章を読み理解していくことは、読み手の論理的な思考が必要であることは間違いありません。
一方で、文章の行間・段落を適切に設定することで読みやすい体裁を保つ、ページ構成デザインに工夫を凝らす、そして表紙等の装丁を行うことにより、読み手の視覚的印象は随分異なります。
読み手の左脳と右脳が共に刺激される…そういう状態になれば本の機能はより高いものになっているのではないかと思っています。
そういう機能を私は「脳内を耕す」機能と呼びたいと思います。
紙の本には一味ちがう機能が⁈
では電子書籍に「脳内を耕す」機能は無いか?と聞かれれば答えは「有る」になります。
電子書籍化する際にカラー化された漫画もたくさんあります。これは非常に読みやすいし美しい。でも紙の本にはそれ以上に「脳内を耕す」機能に繋がる要素がたくさんあると思っています。
例えば
- 紙の香り
- ページをめくる触感
- 本の重量感
- 読み進むうちに、ページが進み、進捗が目に見える
- 装丁の美しさ
- 新刊にのみ付属する帯のデザイン
- 本棚に並べた時の統一感と壮観さ
- カラー印刷の発色の美しさ
- 大判の本の迫力
などなど
これらは電子書籍でも再現できるかもしれませんが、紙の本にはかなわないと思っています。
人の五感に訴える感性的なものですが、すべて「脳内を耕す」上で重要な役割を担っていると私は考えています。
・・・といろいろ書いてきて、ふと思ったのですが・・・
確かに装丁がきれいであることは、読むモチベーションを高めて「脳内を耕す」かもしれません。
でも、とてつもなくきれいだとしたら?
怖くて読めない、というかさわれないのでは?
並べて美しいものは本棚から取れないのでは?
そういう本を買う一番の理由は、
「所有欲」
といえるのかもしれません。
記録媒体として機能以外にも、本の機能は何かありそうです。
続きは、また後日。