恣意的な希少価値~「限定」という罠

みぢかを機能で考える <第13回>

Original 2017/6/20

第7回のブログで、私は、「読む用」と「保管用」の1冊ずつ買っている本もあるという話をしました。 理解していただける方もいれば、無駄だと思われる方もいらっしゃると思います。 おそらく、後者が大多数だと思いますが、残念ながら、我が家でも私以外はすべて後者です。

なので「金の無駄!」「スペースの無駄!」「そもそもこのご時勢に資源の無駄!」という家族のクレームの嵐で肩身の狭い思いをしていますが、このクレームに対する最善の反論は「きれいな方が後で高く売れる」です。

このセリフで納得したのか、あきらめたのか、慣れたのか、真相は不明ですが、家族のクレームは最近静かになりました。

ただし先日もお話しした通り、私は本を「投機対象」と考えたことは一度もありません。

機能を価値と共に考える

紙は劣化します。 どんなにきれいに読んでも、買値より高く売れることはほとんどないでしょう。

でも高値で取引されている本もあります。 それは、需要と供給のバランスが大きく崩れた場合です。 つまり希少価値。 稀覯本(きこうぼん)ともなると、とてつもない価値がつきます。 これはその本の持つ内容と装丁が時間の経過と共に、稀な存在になることで歴史の重みにより異常なまでに価値が高まっていったものです。

ところが、この「希少」価値を時間の経過なしで生み出していると思われるものがあります。 それが「限定本」といわれるものです。

そもそも「限定されたもの」とは何でしょうか? 本に限らず考えていきたいと思います。

まず限定品には大きく分けて「なるべくしてなった・必然的」と「意図的・恣意的なもの」の2つがあると思います。

  • なるべくしてなった・必然的なもの
    1. 期間限定(いつ): その時期でしか採れない原料で作られた食べ物、もしくはその時期に食べたくなるもの、使いたくなるもの。
    2. 地域限定(どこで): その場でしか採れない原料で作られた食べ物。
    3. ユーザー限定(だれが): 特定の人しか必要としないので少数しか生産しないもの。
    4. 技能・手法限定(どのように): 複雑もしくは緻密で大量生産が難しいために生産個数が限られるもの、芸術的価値があったり、文化・風土独特なもの。
  • 意図的・恣意的なもの
    1. 期間限定(いつ): 試作品としてレギュラーメニュー化すべきか一定期間様子を見るもの。
    2. 地域限定(どこで): 地域ゆかりのネーミングなどでブランドイメージを作り出している「お土産」的なもの。
    3. ユーザー限定(だれが): 集客のために用意したものや、「ほしい人が夜中から長蛇の列を作った」という話題を作り広告効果を狙うもの。
    4. 技能・手法限定(どのように): 手作り風などといった、その手法のイメージを活用したものや、需要が読めず、在庫のリスク回避のために少なめに生産し、かつ「限定」と明記することによって完売を目論むもの。

「なるべくしてなった・必然的なもの」は「大量に作れない」から限定品となり、「意図的・恣意的なもの」は「大量に作ろうとすれば作れるが作らない」ものですというわけです。

「希少」なものはなぜ「価値」があるかもう一度考えてみたいと思います。 経済の需要と供給の関係で価値が変わることは古くから言われている経済の基本ですが、これは「価格」という価値の決定プロセスであり、ここで私が言いたい価値とは少々違います。

「簡単に作れないもの」であればあるほど貴重となり、さらに時間と歴史が重なればもっと価値は上がり、

さらにさらに学術的に貴重な場合は、さらに価値はあがります。

一方、「意図的・恣意的なもの」はどうでしょう。

「人が持っていないものを持っている、という優越感を持ちたい」という要求に応える行為、マーケティング戦略といえるのではないでしょうか。 

つまり「現在、世の中に、貴重なモノが少数しかない状態」を作っているのです。 たとえ、広告だろうが、在庫リスク軽減だろうと「限定」と言われて、販売側の戦略に踊らされていると気付きつつも心を躍らされてしまっているのかもしれません。

ということで、限定品を買う場合は、「自分は何を要求しているのか、自分にとっての価値は何なのか」を明確にしてから買うことにします。 「買わずに後悔するより、買って後悔しろ!」 「持ち腐れてこそ宝!」がポリシーなので、多分結局買うと思いますが・・・。

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